9年間の暗闇を抜け、富山に広げる「幸せの家印」

9年間の暗闇を抜け、富山に広げる「幸せの家印」
家印株式会社

家印株式会社

家印株式会社は富山県朝日町を拠点に、木造建築に特化した設計施工を手がける工務店です。
新築や古民家再生、大規模リノベーションに加え、手すり設置など小さな修繕にも対応。 カウンセリングを通じ、お客様の人生の幸福像から家づくりを提案します。
シェアハウス運営や空き家活用など地域の困りごと支援も展開し、11年連続黒字を達成しています。

社名に宿る地域貢献の想い。
自然との調和で街を美しくする「家印」の誇り

社名の由来と御社の強みについて教えてください。

坂東さん:「家印(やじるし)」という社名は、元々、家づくりをメインに手がけてきたことも理由の一つですが、同じ方向を向いて一致団結し、目指す場所へ進んでいくという意味と、幸せな家の印を地域に点在させることで、地域全体の幸せに貢献していきたいという想いの二つを重ねて「家印株式会社」という社名にしました。2015年に法人化し、現在で12年目に入ったところです。その前は個人事業として9年、さらにその前はフリーランスとして1年間活動していました。

事業の中心は建築の設計施工で、特に強みとしているのは木造建築に特化していることです。新築はもちろん、古民家再生や大規模リノベーションも手がけています。
最近力を入れているのは、手すり一本の取り付けといった小さな依頼まで、地域の困りごとに幅広く応えていくことです。こうした小さな仕事の一つひとつが、私たちにとっては「徳を積む」ことにつながると考えています。

そのほか、シェアハウスの運営、建物の管理や清掃も行っています。ゲストハウスを開きたいというお客さまがいれば、その管理や清掃を請け負うこともあります。

もう一つ取り組んでいるのが、街づくりです。私たちの拠点であるこの地域は、海が目の前にありながら、ハザードマップ上でも安全性の高いエリアです。水が自噴するほど良質で、景色も美しく、海産物にも恵まれています。こうした恵まれた場所に、その景観と調和する家を少しずつ増やしています。
家を建てることが、かえって景観を壊してしまうケースも少なくありません。しかし私たちが目指しているのは、その家があることによって地域そのものが美しくなり、魅力が高まっていくことです。

木造建築にこだわる理由は、「人間はもともと原始時代に森の中で育ち、生きてきた存在。だからこそ自然界にあるものとの相性が非常に良い」という考えが根本にあります。私たちの建物は自然素材で仕上げています。肌触りがよく、見た目にも優しい素材が集まって一つの建物になり、その中で暮らすことで健康につながっていく。ストレスの軽減にも良い影響を与えることが、様々なデータからもわかってきています。子育て環境としても非常に優れているという点も、大きな理由の一つです。
もちろん手間がかかる分、コストは上がります。そこは商業的な効率とは相反する部分ですが、自分で言うのもおこがましいですが、私は本質的な家づくりをしているつもりです。

近年は軒のない家も増えていますが、軒がないと夏場は非常に暑くなります。傘をさすように軒があることで雨を防ぎ、結露も抑えられます。窓の少ない家も増えていますが、それも本末転倒だと感じています。やはり人間は自然の光を浴び、自然の風で換気をしたほうがいい。だからこそ、私たちの手がける家はほとんどが深い軒を持たせています。

毎月、全国各地の設計塾や即日設計の場に足を運んでいます。自分の知らない世界で経験を積み、視野を広げ、それをお客さまに還元していく。選択肢の幅を広げれば広げるほど、様々なお客さまの要望により的確に応えられると考えていますね。

見習い時代の絶望を越えて。
大将の後押しが「独立」という未来を切り拓いた

創業の背景を教えてください

坂東さん:学生時代、建築家を描いたドラマを見て、自室をDIYでリノベーションしたことがきっかけで面白さにのめり込み、建築の仕事に強い憧れを抱きました。「卒業後は富山に戻ること」を父と約束し、大学を卒業したあと、東京の専門学校で建築を学び直して、25歳から約束どおり富山市内の会社に就職しました。そこでは5年間勤めましたが、その会社は早々に経営破綻に至ります。その後、自分で会社を立ち上げることになったというのが大まかな流れです。

当時この業界は10年働いてようやく一人前と言われる時代で、私はまだ見習いの立場でしたので、独立しようという思いはまったくありませんでしたね。ですが、会社がなくなり行き場を失って、様々なアルバイトを試してみたのですが、建築ほどやりがいのある仕事はないと気づいたのです。

なぜ転職ではなく独立だったのかと問われれば、若さゆえの勢いで、何も考えずに会社を立ち上げたというのが正直なところですね。専門学校時代、課題の作品では常に校内で1位か2位を争っていました。都内にある有名な建築事務所からも声がかかるようになり、「次第に自分には才能がある、自分ならできる」という思い込みが強くなっていったのです。しかし実際に会社に勤めてみると、自分の思うようにはいかず、ストレスが溜まる一方でした。今振り返れば、最初に勤めた会社が破綻した後に、他の会社も見てから独立するかどうか判断すればよかったのかもしれません。

ただ、時を同じくして、独立のきっかけとなった出来事があったんです。会社が破綻寸前の状態だったとき、毎年赤字が続き、やりたい仕事もできず、自分が思い描いていた能力と現実とのギャップに愕然としていました。
そんなときに、以前朝日町にあった寿司屋で、同級生と食事をする機会がありました。そこで自分の建築への熱い思いを語っていたところ、大将から「弟がこれから家を建てるので、設計してみないか」と声をかけていただいたのです。

しかし、当時の私はまだ見習いで、勤めていた会社も倒産寸前だったため、一度はお断りしました。それでも私が語っていた夢を聞いて、そのご家族は「あなたにやってほしい」と重ねて言ってくださったのです。その寿司屋に頻繁に通っていたわけでも、深い関係があったわけでもないのに、そこまで言っていただき、「それならば」と、ご自宅を設計させていただくことになりました。ほどなくして勤めていた会社を辞めて、それが最初の仕事でしたが、当時はまだ起業したわけではなく、アルバイトのような形で引き受けたものでした。

その家は完成後、大変満足していただき、自分の思い描いた通りの仕上がりになりました。「あなたに頼んでよかった」という言葉を最後にいただいたことは、今でも忘れられませんね。この経験を通じて、学生時代に感じていたやりがいや自信が、少しずつ戻ってきました。「自分の中では建築よりもやりがいのある仕事はなかったし、理想の仕事ができるようになると幸せだな」と思い、自分で会社をやってみることにしたのです。

もしかしたらこの出会いがなければ、自分はおそらく会社を興すこともなく、どこかに勤めていたかもしれません。建築の仕事から離れていた可能性すらあります。
それほどまでに当時の自分は実績も信用もない中で、途方に暮れていた時期でした。

写真:学生時代の坂東さん

9年間、光の見えないトンネルの中にいた

創業後に大変だったことはありましたか?

坂東さん:独立直後は「何とかなるだろう」という根拠のない自信はありました。学生時代に表彰された経験や、お客さまに喜んでいただけたという事実から、「自分には才能と可能性がある」と思い込んでいたからです。しかし、最初の仕事を終えたあと、実際には自分に直接依頼が来ることはほとんどなく、下請けの仕事に頼らざるを得ませんでした。
プランニングや図面作成といった裏方の仕事でわずかな報酬を得るだけで、生活はまったく成り立っていませんでした。経費を差し引くと手元に残るお金はほとんどなく、恥ずかしながら長い間、親に生活を支えてもらう状態が続いていました。

当時は下請けに依存していたので、断れば仕事を失うという恐怖から格安で受け入れざるを得ませんでした。一度最初の金額で受け入れてしまえば、今後もそれが標準価格として定着してしまいます。ある時、報酬を半額にしてほしいと言われ、「それではもう生活が成り立たない」と正直に伝えたところ、それ以降、その元請けからの仕事は一切なくなりました。
さらに取引先の倒産などが重なり、借金は膨らんでいきました。今振り返れば大きな借金ではありませんでしたが、当時の私にとっては年収の何十倍にも及ぶ額で、返済のめどが立たない状況だったのです。

この9年間は、精神的にも非常に苦しい時期でしたね。希望の兆しが見えず、まるで出口のないトンネルの中を、もぐらのように進み続けているような感覚でした。半ば人生を諦めかけていたと言ってもいいでしょう。
当然ながら結婚など考えられませんし、自立して生きていけるのかという不安も常にありました。独立してから9年もの間赤字が続き、実家にお金を1円も入れられない状況が続いた38歳のとき、可能性はもうないのではないかと感じるようになっていました。

当時はどこか現実から逃げていた部分もありました。現実と向き合うことが辛くて、ただひたすら眠って過ごすこともありました。墓参りに行けば、「先祖に申し訳ないことをしている」という思いに苛まれ、お墓で涙が止まらず膝から崩れ落ちることもありました。
友人からの誘いも「忙しいから」と、嘘をついて断ることがありました。同窓会があっても、うまくいっていない現実を口にできず、平静を装っていました。人付き合いはほとんどなくなり、家とわずかな仕事だけの、引きこもりに近い生活が続いていました。

一時期は、自ら命を絶つことまで考えました。将来の見通しがまったく立たず、この先良くなる想像すらできなかったのです。それでも建築という仕事だけは、なぜだか諦めることができなかったんです。今もなお全国各地の設計塾に通い続けているのは、その気持ちが今も変わらず続いているからだと思います。

当時の感情を言葉にするなら、「悔しさ」というより、「惨めさ」が強かったように思います。同級生が活躍する姿を見て、自分をひどく惨めに感じました。ただ、いつか見返してやりたいという悔しさも確かにありました。

親からも、「いい加減に建築を諦めて会社に勤めて、家計を支えてほしいと言われていました。」
実家は先祖代々続く呉服店でしたが、時代の流れの中で着物が売れなくなり、それまでの財産を切り崩しながら暮らしていました、そこでまた「ああ、自分の代で家を途絶えさせてしまうんだ」という自責の念に駆られることもありましたね。
父は長男である自分がいつまでも自立できないことを面と向かって責めることはありませんでしたが、どう浮上すればいいのか分からず、人の力を借りることをせず、一人で抱え込んでいたことが、かえって自分の置かれた状況を悪化させていたのだと今は思います。

銀行からは度々「お金が引き落とされていませんが、どうされましたか」という確認の電話がかかり、父が慌てて資金を工面することもありました。カードローンはすべて止められ、委託費を工面することもできず、消費者金融に頼ることもありました。
それほどまでに、当時の私は追い詰められていたのです。

手探りで始めた活動が、9年をかけて本物になった

そういった状況から転機となった出来事を教えてください。

坂東さん:転機となったのは、地域貢献のためにコミュニティ活動を始めたことでした。当時は自宅の寝室で仕事をしていたため、自分がどこで働いているかすら誰にも知られていませんでした。自宅前にあった空き家を、資金がなかったのでホームセンターで購入した材料だけで手作りでリノベーションし、そこを地域の人々が集うコミュニティスペースとして開きました。

なぜその活動を始めたのかと言えば、正直なところ、仕事がうまくいかず、お金を得たいという思いからでした。当時は「人生の目的」というような深い考えはなく、ただ成功したい、見返してやりたいという一心でした。地域の人々を心から幸せにしたいという思いよりも、自分の存在を知ってもらい、仕事につなげたいという下心が先にあったのかもしれません。

活動を続けるうちに、できることが増え、新聞やメディアへの露出も増え、講演の依頼をいただく機会も増えていきました。町長から「救世主」と評していただいたこともあります。メディアに取り上げられることで、地域の高齢者の方々も私の存在を知ってくださるようになり、「頑張っているね、応援しているよ」と声をかけていただけるようになりました。

そこで初めて、少しずつではありますが、感謝の気持ちや、生まれ育ったこの地域のために何かしたいという想いが芽生え始めました。最初に抱いた「成功したい、見返してやりたい」という感情から、「地域を良くしたい、人のために何かしたい」という気持ちへと、5年ほどの歳月をかけて、ゆっくりと変化していったのです。

そうしているうちに、結果として口コミで小さなリフォームの相談が入るようになりました。9年もの間ほとんど下請けに依存して、独立当初もそれほど仕事があったわけではなく、少しずつ、地道に信用と信頼を積み重ねてきた末に、依頼が増えていったのです。

以前は下請けに依存し、新築住宅設計で相見積もりの競合が多く、設計の仕事が完了しても、元請けの方で契約できなければ無報酬。契約できた場合は請求書を出し、支払い日直前に値引きされることがかなり多くありました。

後になって、他の業者はあらかじめ値引きを見越して上乗せした金額を提示していたことも知りました。まるで騙し合いのようなその構造に強い違和感を覚えました。
こうした構造の先には、必ず誰かが犠牲になります。職人も搾取され、お客さまにとっても決して良い結果にはなりません。他者の犠牲の上に成り立った家には、そうした念が残ってしまうように思うのです。

私はかつて下請けを搾取する構造に苦しめられてきたからこそ、自分がされて嫌だったことは決してしません。あたりまえですが、報酬はすぐに支払い、振込手数料も引きません。過度な値引き交渉もしない代わりに、お客さまにも無理な値引き交渉はご遠慮いただくよう、最初にお伝えしています。
自分自身の経験を踏まえてご説明すれば、多くの方が理解してくださいます。

当社の理念は「地域に愛される会社であること」です。良い会社の基準とは、お客さまとそのご家族、取引先とそのご家族、地域社会、そして自分自身――そのすべてが幸せになることだと考えています。
かつての私はその逆にいました。搾取の円環の中で元請けが利益を得て、他は報われない。
そうした一方的な世界に置かれていたからこそ、当社ではその逆を目指しています。

「朝日町だけ」では響かないと言われて、視野が変わった

富山への想いを教えてください

坂東さん:私は、藤野さんという方に出会う前まで、視野が朝日町だけに留まっていました。生まれ育ったこの町のことばかりを考え、朝日町を良くしたいと繰り返し語っていました。しかし藤野さんからは、「その考え方は素晴らしいけれど、それでは全国各地の人には響かないし、メリットを与えられなく、朝日町に来てもらえないよ」と指摘されました。

理由を尋ねると、「大阪を盛り上げたいという人が頑張っていたとして、あなたはそこへ行って何かしようと思いますか」と。私は「いいえ」と答えました。すると、こう続けられました。
「では、なぜ東京が日本で一番人が集まるのか分かりますか。日本を良くしたい、世界を良くしたいという、志の高い面白い人たちが集まっているからです。そこに吸引力が生まれ、人が集まってくるのです。朝日町だけを良くしたいと言っていては、それ以上の関心を持ってもらえません。誰もが幸せになりたい、良くなりたいと願っているからこそ、朝日町から富山、そして日本を良くするというくらいの思いがなければ、うまくいきませんよ」
この言葉に強い衝撃を受け、それ以降、朝日町だけでなく富山県全体、ひいては日本全国が良くなってほしいという想いを持てるようになりました。

富山は、住めば住むほどその豊かさに気づかされる土地です。立山連峰から流れ出る雪解け水が海に養分を運び、豊富な魚種を育て、空気も水も良く、農作物にも恵まれています。生まれ育った身としては当たり前だと思っていましたが、世界を見渡してみると、これほど恵まれた環境はそう多くありません。山、海、川、豊かな食に恵まれ、なおかつ美味しい生水を飲めるという環境は、世界的にも数パーセントしかないと言われています。この景観の中で当たり前のように暮らせることは、非常に大きな価値です。これまで当たり前だからと壊し続けてきたものを、これ以上壊すことはやめるべきだと考えています。

この地域では井戸を掘ると水が自噴するほど、良質な水に恵まれています。不純物が少なく、飲み水として最適な水は、山の雪解け水が三、四十年かけて濾過されたものです。それがこれほど近い距離で得られることも、大きな魅力です。

若い頃はどうしても都会に惹かれるものです。ネオンが輝き、多くの人で賑わい、おしゃれなものに溢れた街に魅力を感じていました。しかし年を重ねるにつれ、人間らしく生きるとはどういうことかを考えるようになり、人間は自然と切り離しては生きられない、自然の中で暮らしてこそ、穏やかで幸せな生き方ができるのだと実感するようになりました。コンクリートに囲まれた暮らしには、やはり限界があるのだと気づいたのです。

富山市はある程度都市機能を持っていてもいいと思います。近い距離に一つの都市があり、そこへ気軽に行き来できる。それでいて、実際に暮らす場所は、自然豊かな環境が望ましい――年を重ねるほど、そう強く感じるようになりました。

これから人口が減少していく中で、自然を壊し続けることは、世界的に見ても価値を失う選択だと思います。むしろ、その価値にいち早く気づき、みんなで守り、これ以上壊さないことを考えていったほうが、より魅力的な日本、そして富山になっていくはずです。
地元にずっといると、その価値が当たり前になり、気づきにくいものです。だからこそ、一度外に出た人間が、その価値をあらためて発信していく必要があると考えています。

‟絶景”を活かした建築設計事務所として、朝日町から全国へ。

今後の展望を教えてください

坂東さん:これまで通り地道な取り組みを続けていくつもりです。全国的に新築の需要は減少していく傾向にあるため、事業のエリアを拡張し、最終的には“絶景”を活かした建築設計事務所として全国から依頼をいただけるようになることを目指しています。ただし、あくまで本拠地は朝日町であり、この地に志を同じくする人たちが増えていくことを願っています。

もう一つの方向性は、地域の困りごと解決の領域を広げていくことです。家や土地に関わる相談から始まり、暮らしに関わる幅広い分野で気軽に相談対応できる窓口を作っていきたいと考えています。
徳を積み、信頼を築いていくことが、やがて建築の相談にもつながっていく。そうした循環を生み出していきたいのです。この業界では、手間に見合わない仕事を敬遠する会社が多いのが実情です。しかし私は、そうした仕事にこそ喜んで応える会社でありたいと思っています。単体では採算が合わなくても、その先に築かれる信頼関係にこそ意味があると考えているからです。

事業の軸について問われれば、大切にしている信条は「誠実さ」「感謝」そしてWin-Winの関係を築くことです。信用と信頼、そして徳を積み重ねていく先に、明るい未来があると信じています。
私は、利益を優先して仕事をする必要はないと考えています。だから会社にノルマは設けていませんし、社員に契約件数を求めたこともありません。長い時間軸で見ると、お客さまに満足していただき、幸せを感じていただき、信用と信頼を積み重ねていけば、仕事は自然とついてくるものだと考えているからです。

事業の対象は、必ずしも建築である必要はないと考えています。地域の幸せにつながり、人々がワクワクできることであれば、何であっても構いません。ただし、建築との関連性があることには積極的に取り組んでいます。清掃事業や空き家の活用も、その一環です。まったく無関係なことをするつもりはなく、建築という軸を持ちながら、本質的な価値を提供していきたいと考えています。

会社としては、しっかりと税金を納めるべきだと考えています。合法な範囲を超えた過度な節税を行う会社も少なくありませんが、私はそれを良しと思いません。地域のために税金を納め、寄付を行う会社のほうが、長く地域に根づいていくと信じているからです。そうした姿勢は、目に見えない形で周囲に伝わっていくものです。お客さまに知られなければ構わないという考え方は一切せず、すべてを正直にお伝えし、責任を持って対応するようにしています。時には損をすることもありますが、それが本質だと考えています。

会社の規模を数倍に拡張し、より地域を支えられるだけの存在になれば、より大きな貢献ができると考えています。地域にとって欠かせない存在だと思っていただけるようになれば、それは自然と愛される会社になっていくはずです。与えられる立場よりも、与える立場になることが何より重要です。
私たちの世代がゼロから土台を築き、次の世代がそれを引き継いで地域を支え、さらに発展させていく。そうした未来を実現したいと考えています。

若い世代へ ―― 失敗を恐れないでほしい

若手世代の読者へのメッセージをお願いします。

坂東さん:若い方々に伝えたいのは、まず自分自身が今の状態にたどり着けたのは、人生の目的を明確にできたからだということです。以前の私は「稼ぎたい、成功したい」という表面的な目標しか持っていませんでした。しかし、それではうまくいきませんでした。
何のために、誰のために、なぜ自分がこの仕事をするのか。その問いに自分自身で納得し、それを他者に伝えていくことこそが、信用と信頼につながり、成功への道を開いていくのだと実感しています。

まずは自分自身と向き合い、自分が生きる目的を見つけていくことが大切です。「そして、徳を積み続けること、信用と信頼を大切にすること。」これは非常に重要なことで、多くの人間がこの姿勢を大切にする社会になれば、日本はもっと良くなると思います。
富山も同じです。魅力ある人が増えれば増えるほど、多くの人が集まってくるはずです。目先の利益にとらわれず、遠い未来を見据えて積み重ねていくことの先に、幸せがあるのだと信じられる人が増えることを願っています。

そして、失敗を恐れないでほしいと思います。今の若い世代は、人に迷惑をかけてはいけない、失敗してはいけないという意識が強く、挑戦をためらう傾向があるとよく耳にします。
困難に直面したとき、逃げずに向き合うことが大切です。もちろん、乗り越えられないほどの高い壁は避けるべきかもしれませんが、基本的には困難に挑戦し、乗り越えていく経験を積み重ねることで、人は成長し、できることの幅を広げていくものです。

誰もが不安や恐れを抱えています。失敗を恐れるあまり、踏み出せない人も多いでしょう。しかし、挑戦することそのものが経験となり、次への改善につながっていきます。
挑戦する人が少しでも多くなれば、日本はもっと良くなると思います。言われたことだけをこなすほうが楽かもしれません。しかし、成長するのは、挑戦し、自分の思いを形にしようとする人のほうです。そうした人こそが、思い描いた世界を実現していけるのだと思います。

対立や批判からは、良いものはなかなか生まれません。これまでに多くの人を見てきましたが、批判的な姿勢を続ける人や会社は、次第に力を失っていく傾向があります。人を批判し、対立することは、その瞬間には何か得るものがあるように見えても、結局は自分自身に返ってくるものだと感じています。その逆もまた然りです。

企画・運営会社:株式会社ミミタス
取材・編集:長谷川 泰我
当メディアに関するお問い合わせ:memi.co.jp

Back To List