カターレ富山 左伴社長が語る、孤独の先に見つけた「地域の誇りを持つ」ということ

カターレ富山 左伴社長が語る、孤独の先に見つけた「地域の誇りを持つ」ということ
株式会社カターレ富山

株式会社カターレ富山

株式会社カターレ富山は、富山県全域をホームタウンとする、プロサッカークラブ「カターレ富山」の運営会社です。チーム名は「語れ」と富山弁の「勝たれ」そして、イタリア語の「歌う(cantare)」に由来します。
2024年には、11年越しのJ2復帰を果たし、現在はJ1昇格を目指して、スポーツを通じた地域活性化に尽力しています。

「J1の景色」を知る者が、革命を起こすまで

富山に来た時に真っ先に感じたことはありましたか?

左伴さん:私がカターレ富山に来て最初に感じたのは、言葉を選ばずに言えば「ちまちました現状」への強烈な違和感でした。
富山は法人所得が全国5位という、非常に豊かな地域です。 それにもかかわらず、当時のカターレのチケット単価はわずか700円台。清水エスパルスの2,700円台と比較すれば、4分の1程度に過ぎませんでした。スポンサー営業も小口の電話営業が中心で、1社あたりの平均単価は50万円台という状況でした。

例えるなら、相手が潤沢な資金で近代兵器を手に戦っているなか、こちらは「竹槍」一本で戦場に立たされているような状況だったのです。 だからこそ、私は嫌われる覚悟で「感動はタダでは買えません」と訴え、値上げや価格交渉を断行しました。
ビジネスである以上、そこには明確な経済合理性が存在します。それを伝えてこなかったことは地域の方々に対して不誠実であり「応援するきっかけ」さえ奪っていたのではないかと感じています。 目標を定め、策を練り、それを世間に開示して審判を仰ぐ。
そうして関心を呼び起こし、認知を高めていくのが私の手法なんです。

「ようやくJ2に戻れた」「奇跡の残留を果たした」あの時の感動は本物でした。
しかし、J1の世界を歩んできた私からすれば、J2は「決して長く留まってはいけない場所」です。ありがたいことに、 J2であってもアウェーまで駆けつけてくれる熱心なサポーターはいますし、どこかチヤホヤされる空気もあります。
しかし、その心地よさに甘んじて「残留できて良かった」と安堵しているうちは、J1昇格など到底望めません。

J1に上がれば、見える景色は大きく変わります。私が湘南ベルマーレにいた時もそうでしたが、それまで5,000人前後だった観客が、1万人を切ることがなくなる。
スタジアムの雰囲気がガラッと変わって「またここへ来よう」という強いエネルギーが生まれる。あの圧倒的な熱狂を富山の人たちに見せたいんです。

数値化する「科学」の目と、消えない「幼少期」の原体験

現在の価値観を築き上げた「左伴社長の原体験」を教えてください。

左伴さん:私の物事の考え方の原点は、大きく分けて二つあります。
一つは、15歳から打ち込んだ陸上競技です。

私はハイジャンプ(走り高跳び)をやっていましたが、当時は背面跳びが初めて出た頃でした。陸上というのは非常に科学的なスポーツで、すべてが数字で出てくるんです。例えば、バーに向かって地面を蹴る時の「G(重力加速度)」をどの程度にすれば、体がどの高さまで上がるのか。
遠心力を利用してどう回り込めば、推進力がどのように変化するのか。当時はコンピューターなんてありませんから、計算尺を叩いて、自分の肉体が描く軌跡を数値化していました。
目標とする2メートル10センチを跳ぶために、どこの筋肉をどう鍛えるべきか。自分を一つの機械のように分析して、PDCAを回す。この「数値を可視化して目標に挑む」姿勢は、後の経営のスタイルにも直結しています。

もう一つ、さらに深い根底にあるのが、幼少期の体験です。
私は子どもの頃、親と一緒に暮らすことができず、周りに気を使いながら親戚の家などを転々とするような形で一時期育ってきました。常に相手の顔色を伺い、どうすれば喜んでもらえるかを察して生きる。それが私の原体験です。
時には「東京から来たしげちゃん」として、周囲の期待に応えることで自分の居場所を確保する。その感覚が、私という人間のベースになっています。

だからこそ、私の中には二つの人格があるんです。「左伴社長」として数字を追い、ビジョンを語る自分。そしてもう一つの、周りに気を使って調和を重んじる「左伴」としての自分です。マリノス時代や清水エスパルスの頃は、周囲が社長としてではなく「左伴」の部分を見てくれて、みんなと喫茶店でお茶をしたり、近所のおばちゃんに「これ食べて食べて!」とおでんを差し出されたりするような「経営者としての左伴」という肩書を忘れて、休める瞬間に救われてきたんです。

衣装提供:theMost

松田直樹の一言が、僕の「退路」を断った

転機になったエピソードはありますか?

左伴さん:私のキャリアの中でもう引き返せない、忘れられない瞬間があります。
2002年の横浜F・マリノス時代のことです。

当時は成績不振で、多くの選手に契約非更新を告げなければならない、非常に苦しい時期でした。そんな時、ワールドカップにも出場し、ミスターマリノスと呼ばれた松田直樹が私のところにツカツカと歩み寄ってきて、こう言ったんです。
「社長はいいよな。どうせ日産に帰れるんでしょ? ここをクビになっても、出向だもんね」

その言葉に、当時はカチンときました。ただ同時に、強烈な衝撃を受けたんです。
私はプロの選手たちに命懸けの戦いを強いて、その生活を奪う決断(解雇)をしながら、自分だけには「日産に戻れる」という退路がある。その「筋の通らなさ」が、自分の中でどうしても許せなかったんです。

「それなら、俺も戻れないようにしてやる」
私はその日、その足で、日産に転籍を願い出ました。安定した大企業の社員という身分を捨て、単年契約のプロ経営者として生きる道を選んだんです。あの日、逃げ道を自ら断ったことで、私は本当の意味でこの世界の一員になれたのだと思っています。

富山に来る時も同じでした。神奈川の自宅を売り、住民票も富山に移しました。
今でも富山の人から「いつ帰るんですか?」と聞かれますが、ハッキリ言います。私にはもう帰る場所なんてどこにもないんです。
もしかしたら、箸にも棒にも引っかからない可能性だってあるけど、逃げ道がある旅の人という状態だったら、この地の人たちに認めてもらうことなんて絶対にできない。
だから、覚悟を決めて私はここにいるんです。

孤独の底で味わう、新しい「器」の形

一人の経営者として「孤独」とどのように向き合っていますか?

左伴さん:経営者は孤独だと言われますが、富山での孤独は、私がこれまで経験してきたものとは少し性質が違います。
横浜F・マリノス、清水エスパルスにいた頃は、目標に向けて「一丸となって進んでいこう」という輪の中に、確実に私自身も入っていました。「社長も胴上げしよう」と言ってもらえるような、一体感の中にいたんです。しかし今はどこか自分が輪の外にいる、少し離れた場所に立たされているような感覚があります。

富山の皆さんは奥ゆかしいのか、賛否を問わず、私に対する意見がなかなか直接届かないんです。もどかしいし、自分が本当に受け入れられているのか分からず、ジレンマを感じることもあります。だからこそ、私はその孤独をしみじみと味わいながら、今までのキャリアとは経営のやり方を変えようとしています。

「組織の規模は経営者の器で決まる」なんて聞いたことがあると思いますが、今までは私自身が中心になって手足を動かし、綻びがあればパッチを当てて無理やり「大きな器」を維持してきました。
でも、それはすぐに壊れてしまう脆い器なんです。だから今はあえて私が輪に入りきらないことで、社員たちが自ら汗をかき、失敗を経験して作り上げる「小さくても頑丈な器」を目指しています

もちろん、自分が輪の中にいない寂しさはあります。
でも、昇格が決まった瞬間に、日頃は感情を表に出さない社員たちが運営本部で大泣きしている姿を見て、つられて涙を流しながら「これでいいんだ」と思えたんです。
私がツギハギで作った器ではなく、彼らが自分たちの手で作った器。その方が、このクラブの未来にとっては、きっと正しいことなんだと思っています。

衣装提供:theMost

富山を「誇る」ことから、すべては始まる

「富山を背負うという覚悟」について教えてください

左伴さん:今年のユニフォームコンセプトである「富山を背負え。」ここには、私の富山という土地に対する想いと、ある種の危機感が込められています。私が富山に来て驚いたのは、地元の皆さんが自分たちの素晴らしさにあまりにも無頓着なことでした。
タクシーの運転手さんに「富山ってどこか見るところある?」と聞いても、「ないですよね、大したことないですから(笑)」と返ってくる。でも、それは大きな間違いだと思っています。

ある日、富山大橋を車で渡っている時、橋の中心に到達するにつれて、立山連峰が目の前にグワッと上がってきた。その美しさに私は「来年のユニフォームはこれ(立山連峰)で行く!」と即決しました。世界一のスタバがある環水公園、歴史の博物館のような地鉄トラム、そして立山連峰。富山の方たちにとっては当たり前なのかもしれませんが、客観的に見れば魅力的なものがたくさんあるんです。

ニューヨーク・タイムズが絶賛したから喜ぶのではなく元々自分たちが持っている価値を、もっと自分たちで誇っていい。「その誇れる富山を、俺たちが背負って戦うからついてきてくれ」
それが、私にとっての「富山を背負う」という覚悟なんです。

次の世代へ、そして内なる「火」の行方

今後はどのような未来を描いていますか。

左伴さん:私はもう70歳になりました。同年代の多くは、役職定年を迎え、年金をもらって趣味のゴルフに打ち込む、そんな老後を過ごしています。でも、私は今もこうして現役でやっている。
J1の景色を知り、50億規模の会社を牽引してきた。実はそんな自分自身のアイデンティティーに少し満足しているんです。

かつて、知事の新田さんが一人の友人として私の手を握り、「左伴さん、ずっと富山にいてくださいね」と言ってくれました。その言葉は、孤独の中にいた私にとって、この上ない救いでした。だから、これからの人生で、私はどんな風景を見ていたいか。それは、年齢や肩書に関係なく「左伴にいてほしい」と言われる存在であり続けたいということです。
「あなたがいると自分たちは変われる、楽しい、幸せだ」と言ってもらえる。そんな存在になって、悔いを残さず生涯を終えたいと思っています。

そして、カターレ富山という組織の中に残したいのは、単なる「仕組み」ではなく「利他の精神」です。自分以外の誰かの幸せや喜びを追求するために、自分はどう生きていくか。高齢者や障がいのある方々が、私たちの活動を通じて笑顔になってくれる。その喜びを自分の喜びとして感じられるような社員、コーチを育てていきたい。それこそが、私の内側で燃え続けている「灯り」なんです。

衣装提供:theMost

価値を最大限に発揮できる場所

若手世代へのメッセージをお願いします。

左伴さん:人生の岐路に立つ若い皆さんに伝えたいのは、富山は「自己実現の穴場」だということです。富山の人たちは素晴らしいポテンシャルや財力を持ちながら、自分たちの価値を謙遜することが多い。

他の地域よりもベースが謙虚である分、あなたが本気で動き、誰かのために行動すれば、その反響は驚くほど大きく、高く返ってきます。自分が生きていることで誰かに喜んでもらえる実感を、これほど得やすい地域は他にありません。

私は、J1のあの熱狂的な景色を、もう一度この目で見たい。
選手たちの駐車場に高級車が並び、街中がカターレの勝利で笑い合う、そんな強さを富山で実現したい。そのために、私は孤独も重圧もすべて引き受けて、走り続けます。

富山は、私が命を懸けるに値する場所ですから。
じゃなきゃ、私は5年もここにいませんよ。

衣装提供:theMost
企画・運営会社:株式会社ミミタス
撮影・ライター:長谷川 泰我
当メディアに関するお問い合わせ:memi.co.jp

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